史跡 鴻臚館跡1
鴻臚館の役割
鴻臚館は、外国からの賓客をもてなし、滞在させるために平安京・難波と筑紫の3ヵ所に設けられた施設で、筑紫の鴻臚館は古くは筑紫館と呼ばれました。
奈良時代までは外交専用の施設で、中国(唐)や朝鮮(新羅)からの使節は、来日するとまずここに収容され、朝廷の許可を得ると京へ向かい、帰国の際にも筑紫から船出しました。我が国の遣唐使や遣新羅使、留学生などもここから船出するなど、筑紫の鴻臚館は外国へに直接の窓口としての役割を担っていました。
平安時代になると、やがて外交使節の来日が途絶えて遣唐使も廃止され、かわって唐や新羅の商人の来航が増加します。商人らは朝廷の許可を得て交易を行い、鴻臚館は外交の場から交易の場へと変容していきました。
鴻臚館跡の発見
近世まで、鴻臚館の故地は現在の博多駅北方付近とする説が一般的でしたが、大正時代に九州帝国大学医学部教授であった中山平次郎が「万葉集」遣新羅使の歌に描写された情景などをヒントに、鴻臚館を現在の位置に推定しました。しかし戦後は、福岡国体の競技場やその後の市民野球場への改修工事などにより破壊され、鴻臚館の遺構は消滅したとも考えられていましたが、1987年の平和台野球場外野席の改修工事に伴う発掘調査により、遺跡が良好に残っていることが判明しました。
福岡市による調査
福岡市教育委員会では1987年の発見を契機として、翌年から鴻臚館跡調査研究指導委員会の指導助言のもと、全容解明のための発掘調査を行っています。
第Ⅰ期調査は、現在の「鴻臚館跡展示館」とその周辺を対象に実施し、終了後に仮整備を行い、1995年から一般公開しています。第Ⅱ期は福岡城三ノ丸の西側、第Ⅲ期は第Ⅰ期調査部分の周辺を対象に調査を実施しました。
1998年には平和台野球場が撤去され、跡地の調査を開始しました。面積が広大なため南北に二分し、南半分(第Ⅳ期)を1999~2005年に、北半分(第Ⅴ期)を2006年から調査しています。
今後も、鴻臚館の全容解明にとって必要と考えられる地点について調査を行っていく予定です。