緒方ふみあきのメモ

日常のアレコレを書き留めていきます

史跡 鴻臚館跡2

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鴻臚館の変遷

 鴻臚館は堀で隔てられた南北二つの客館で構成されており、うち北側は文献に残る「鴻臚北館」に相当するとみられます。鴻臚館の造営以前は、二本の丘陵が東へ伸び古墳が造られていました。これまでの調査により、大きく三時期の建物群の変遷が明らかになりました。

 

【第Ⅰ期/7世紀後半】

 堀の南北に4棟の掘立柱建物が直角に配置され、北側に1棟の掘立柱建物とこれを囲む柱列があります。堀の南と北では建物の向きや配置が異なっており、次の第Ⅱ期のように規格的ではありません。

 

【第Ⅱ期/8世紀前半】

 造営に先立ち、堀の一部が埋め立てられ、北斜面には高さ4m以上の土留めの為の石垣が築かれています。この堀をはさんで、南と北に全く同じ方位・規模の区画が造られています。「布掘り」と呼ばれる工法を用いて柱を立て並べた塀で、東に門を設けています。また、区画の南西外にはそれぞれトイレを設けているほか、堀の西端には陵橋を、東側には土橋、のちには木橋を造って南北の連絡橋としています。

 

【第Ⅲ期/8世紀前半~9世紀前半】

  礎石を用いた大型の建物へと造り変えられています。堀の南側では並行する南北方向の2棟とこれに直交する東西方向の1棟を、北側では東西方向の建物1棟を確認しました。堀は埋められて更に狭くなっています。

 

【第Ⅳ・Ⅴ期/9世紀後半~11世紀前半】

 建物は発見できませんが、廃棄土坑(ゴミ穴)がいくつも掘られており、土坑の出土品から瓦葺きの建物が存続していたと推定できます。

 

【鴻臚館の廃絶】

 11世紀中頃以降は、鴻臚館に関する遺構や出土品が全く見られなくなり、1047年に「大宋商客宿房」放火犯人を捕縛した記録を最後に文献から姿を消す状況によく合致します。